無考の実践で美人・イケメンになる
人は見た目ではない、とはよく言われるが、実際には誰もが「美しくなりたい」と願っている。
それは何も虚栄心の問題ではない。
美とは本来、命の輝きそのものであり、その輝きに惹かれるのは自然なことだからである。
では、その「美しさ」とはどこから生まれるのか。整った顔立ちか、スタイルか、高級な服装か。
確かにそれらも一つの要素かもしれない。
だが、もっと根本的な美しさがある。
それは、「無考」という静寂な在り方からにじみ出る、内側からの美である。
無考になるとは、頭の中のおしゃべりをやめ、過去と未来への妄想を断ち、今この瞬間に完全に在るということだ。
驚くべきことに、人が無考の状態にあるとき、表情は柔らかくなり、目は澄み、顔の筋肉は自然に整い始める。
顔には、その人の思考と感情がそのまま現れる。
日々、怒りや不安を抱えていれば、その表情筋は固まり、顔つきも険しくなる。
逆に、思考が静まり、心が穏やかになれば、筋肉はほぐれ、血流がよくなり、肌の色艶すら変わってくる。
無考は最も根源的な美容法なのである。
さらに言えば、無考であるということは、自己否定や自己評価の基準から解放されているということでもある。
「私の鼻は低い」「もっと痩せなきゃ」「あの人のほうが綺麗だ」といった比較の声が頭の中で鳴り響いているうちは、どれだけ外見を整えても、その苦しさが滲み出てしまう。
しかし、無考の実践によってそうした思考が静まると、人は自分の容姿に対する囚われから解放され、自然体になる。
その自然さが、見る人にとって心地よく映るのである。
また、無考は姿勢や動作にも影響を与える。
思考が止まり、今に集中している人の所作は、美しく、整っている。
立ち姿、歩き方、話し方、そのすべてにブレがなく、しなやかで、そして静かだ。
その姿は、見る者に安心を与え、「この人は美しい」と感じさせる何かを放つ。
つまり、美人やイケメンとは、顔立ちではなく、「無考という状態の反映」なのである。
実際、目立つ美しさではなく、じわじわと人を惹きつける人というのは、どこか無考の気配を持っている。
面白いことに、無考を実践していると、周囲の人の反応も変わってくる。
「最近、雰囲気が変わったね」「なんか綺麗になった気がする」と言われることが増える。
これは、内面が静まり、透明になった結果、その人の本質的な魅力がにじみ出ているからだ。
それは化粧や整形では到達できない、根源的な美しさである。
そして、その美しさは、年齢や性別を超える。
無考の人は老いてもなお美しい。
なぜなら、それは若さや流行に左右されない、命の静かな輝きだからである。
美人になりたい、イケメンになりたい。それは決して悪い願いではない。
ただし、その願望を「思考」によって実現しようとする限り、比較と自己否定の沼にハマってしまう。
だが、もしその願いを胸に抱きつつ、静かに無考に戻っていくならば、ある日ふと、鏡に映る自分が、以前よりもずっと柔らかく、整って見えることに気づくだろう。
そして何より、自分自身が、自分の顔を愛せるようになっているはずである。
無考の実践は、外見の整形ではない。
内面の沈静と一致であり、結果として外見にまで影響を及ぼす力である。
思考を止め、今に在ること。
その繰り返しが、あなたを静かに、美しく、そして魅力的にしていく。
美しくなりたいなら、まずは頭のおしゃべりをやめて、鏡ではなく、今この瞬間に意識を向けてみることだ。
それが美人・イケメンへのもっとも確かな道なのである。