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永遠は今この瞬間にある

朝起きて時計を見る。 電車の時刻を気にしながら駅へ急ぐ。 会議の時間に遅れないよう、昼食を慌てて済ませる。 帰宅してからも、明日のスケジュールを確認し、 週末の予定を立て、来月の計画を練る。

私たちは時間の中を生きているのか? それとも、時間に生かされているのか?

ふと立ち止まって気づく。 「今」を本当に生きている瞬間が、どれほど少ないことか。

5分前に飲んだコーヒーは、もうどこにもない。 昨日の夕日は、もう沈んでしまった。 去年の桜は、もう散ってしまった。

私たちが「過去」と呼んでいるものは、 実は今この瞬間の記憶という思考に過ぎない。

しかし、多くの時間を私たちは過去の中で過ごしている。 「あの時はよかった」という郷愁や、 「あんなことをしなければよかった」という後悔。

過去は既に存在しないのに、 なぜそれに今の時間を捧げてしまうのだろう?

明日の会議も、来年の計画も、 老後の生活も、まだ起こっていない。

それらは今この瞬間の「想像」という思考の産物だ。

もちろん、計画を立てることは大切だ。 しかし、未来の心配や期待に心を奪われて、 今この瞬間の美しさを見逃してしまうとしたら?

未来への不安で今を犠牲にし、 未来への期待で今を見過ごす。 これほど不合理なことがあるだろうか?

無考神道では、「今この瞬間」を時間の一部とは考えない。 むしろ、すべての時間が生まれる源泉として捉える。

今この瞬間には、始まりも終わりもない。 過去の記憶も、未来の可能性も、 すべてが今この瞬間の中に含まれている。

それは時間の「点」ではなく、 時間を超越した「永遠の扉」なのだ。

ある休日、思い切って時計を外してみよう。 スマートフォンも時計モードをオフにして、 家の中の時計も見ないでいてみる。

最初は不安になるかもしれない。 「今何時だろう?」 「時間を無駄にしているのでは?」

しかし、しばらく続けると気づく。 体は自然に「時」を知っていることを。 お腹が空けば食事の時間だし、 眠くなれば休息の時間だ。

そして何より、 時間を気にしない瞬間の豊かさに驚くだろう。

コーヒーの香りがこんなに深かったこと。 窓から見える雲の動きがこんなに美しかったこと。 呼吸がこんなに心地よかったこと。

時間という枠から解放されたとき、 生命本来のリズムが蘇ってくる。

子どもの頃を思い出してみよう。 遊びに夢中になっているとき、 時間の感覚は消えていた。

「もう5時間も遊んでいたの?」 そんな大人の言葉に驚いた記憶はないだろうか?

子どもは自然に「永遠の今」を生きている。 過去への執着も、未来への心配もなく、ただその瞬間に完全に没入している。

大人になる過程で、私たちは時間という概念を学ぶ。それは社会生活に必要なスキルだ。しかし、同時に私たちは永遠の今を見失ってしまった。

タイマーを5分にセットする。しかし、時間を意識するのではなく、 その5分間を永遠として体験してみる。

呼吸に意識を向け、 一回一回の呼吸を初めての呼吸として味わう。5分が永遠のように感じられるまで続ける。

歯を磨く時、シャワーを浴びる時、歩いている時、階段を上る時…

日常の何気ない動作を、人生で最初で最後の体験として行ってみる。

「歯を磨く」という行為に完全に没入し、 他のことを一切考えない。

その瞬間、時間は止まり、永遠が始まる。

電車を待つ時、信号待ちの時、 誰かとの待ち合わせの時…

イライラする代わりに、その時間を贈り物として受け取る。 「何もしなくていい時間」として楽しむ。

ただ立っている、ただ座っている、 ただ存在している自分を感じる。

その瞬間、待ち時間は瞑想の時間に変わる。

一日に何度か、今この瞬間に感謝してみる。

呼吸ができることに感謝。 心臓が動いていることに感謝。 この瞬間に生きていることに感謝。

当たり前すぎて忘れている奇跡に気づくとき、 今この瞬間の神聖さが明らかになる。

不思議なことに、今この瞬間に完全に在るとき、 願いが自然に実現されることがある。

それは努力や計画によるものではない。 時間という制約から自由になったとき、 因果関係を超えた創造が起こるのだ。

過去の経験に基づく限界も、 未来への不安による萎縮も、 今この瞬間には存在しない。

純粋な可能性の場である「今」では、 あらゆることが可能だ。

時間の最大の恐怖は「死」かもしれない。 「いつか終わりが来る」という恐れ。

しかし、永遠の今を生きる者にとって、 死は単なる変化に過ぎない。

本質である意識は時間を超越している。 生まれることも死ぬこともない。 ただ、様々な形を取って表現されるだけだ。

今この瞬間に完全に在ることで、 私たちは自分の不死性を体験する。

時間を幻想と呼ぶことは、 時間を否定することではない。

時間は美しい道具だ。 音楽を奏でるため、 物語を紡ぐため、 成長を体験するため。

問題は、道具に支配されることだ。 時間を使うのではなく、 時間に使われてしまうこと。

真の自由は、時間を適切に使いながら、 同時に時間を超越していることだ。

永遠の今を生きる人には、独特の魅力がある。 慌ただしさがなく、 深い平安に満ちている。

彼らと一緒にいると、 時間がゆっくり流れるように感じる。 それは彼らが時間の奴隷ではなく、 時間の主人だからだ。

そして、そのような在り方は、 特別な才能や修行を必要としない。 今この瞬間に意識を向ける、 ただそれだけのことなのだ。

この文章を読み終わったら、 一度、時間を忘れてみよう。

過去のことも、未来のことも、 すべて脇に置いて、 今この瞬間だけに在ってみる。

あなたの呼吸を感じ、 あなたの心拍を感じ、 あなたが今ここに存在していることを感じる。

その瞬間、あなたは気づくだろう。 永遠はどこか遠いところにあるのではなく、 今この瞬間にあることを。

時間は流れているのではなく、 あなたの中で生まれていることを。

そして、真の自由とは、 永遠の今を生きることだということを。

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無考神道・教祖

無考神道の教祖。 自身が日常生活の中で「無考」に至ったことから、日常生活での実践に重きを置いている。 また、無考によって司法試験に合格、年収3000万円超を達成、癌からの生存を実現するなど現世的な利益を得た経験があるため、現世的な願望を否定しない。

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