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「スマホ脳」と無考

朝起きてすぐ、無意識にスマホを手に取る。
通知が溜まっていないか、メールは届いていないか、SNSに何か反応はあるか
――指先は勝手に動き、目は情報の波に晒される。
そして気がつけば、まったく関係のない動画を延々と見続けている。
これが今、多くの人の「日常」になっている。
スマホ脳という言葉があるように、スマホはもはや情報端末ではなく、人間の脳を支配する第二の意識である。
いや、むしろ脳そのものと言ってもよい。
画面の向こうにあるのは情報ではない。
思考の連鎖であり、思考の餌であり、思考を止めないための装置である。

スマホを見ることで、我々の頭の中では常に何かがしゃべっている。
あれが気になる、これは嫌だ、次はこうしよう、なぜあいつは、なんで私は
――止まらないおしゃべり。
これを外から供給するのがスマホであり、スマホに接している限り、無考に近づくことはできない。
スマホの中にあるコンテンツの多くは、思考を刺激するように作られている。
怒り、羨望、焦り、欲望、不安、共感、興奮。
SNSは感情と思考を動かすことに特化したアルゴリズムの塊であり、人間の注意を奪い続けるためだけに存在している。

無考とは、この逆である。
頭の中のおしゃべりを静かに止め、ただ目の前にあるものをあるがままに見ること。
スマホを使っている間、人は現実を見ていない。
現実を感じているつもりで、実際には他人の生活、他人の感情、他人の思考を借りて、自分の思考を走らせているに過ぎない。
そこに「今」は存在しない。「私」すら存在していない。
無考になるというのは、思考の中心から降りて、ただ存在に戻るということだ。
だが、スマホは存在に戻ることを妨げる。
スマホは情報に満ちているが、それを見続ける私の内側は空っぽになっていく。
内側が空っぽであることと、無考であることは似て非なるものだ。
無考とは「今この瞬間」の密度が極限まで高まった状態である。
スマホによる空白は、逆に「今」が極限まで薄くなった状態だ。

だからこそ、スマホを見ない時間を意識的に作ることは、無考への第一歩となる。
ただ見ない、ではない。ただ持たない、でもない。
手放したその時に、自分の内側にどれだけのノイズがあるかを観察する。
見ないことによって湧いてくる焦り、退屈、不安、孤独感。それを「感じながら黙る」という行為が、無考に繋がっていく。
思考を止めるのではない。思考を見つめる。
湧き上がる思考の声に、あえて返事をしない。ただ見送る。
その沈黙の中で、ようやく本当の自分が立ち上がってくる。

スマホは便利だ。もちろん私も使っている。
だが、便利さに飲まれてはいけない。
スマホは思考を補助する道具にすぎず、自分の存在を埋めるためのものではない。
思考に疲れたとき、情報にうんざりしたとき、ただ目を閉じて、深く息を吐く。そして、何も考えない。ただそこに在る。
その時間こそが、スマホによって失われがちな「生きる」という行為を、静かに取り戻してくれるのだ。
無考とは、情報を止めることではない。情報を超えることである。
スマホという無限の雑音の中で、自分だけの沈黙に還る。
その力こそが、今の時代における本当の自由なのかもしれない。

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無考神道・教祖

無考神道の教祖。 自身が日常生活の中で「無考」に至ったことから、日常生活での実践に重きを置いている。 また、無考によって司法試験に合格、年収3000万円超を達成、癌からの生存を実現するなど現世的な利益を得た経験があるため、現世的な願望を否定しない。

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