無考と神との関係
人は神に祈る。
神社に足を運び、柏手を打ち、願いを唱える。
「健康でありますように」「仕事がうまくいきますように」「この縁が続きますように」
――その多くは願望であり、神に向かって語りかける「言葉」である。
だが本当に神とつながるには、言葉はいらない。
願いも、思考も、何もいらない。むしろそれらがある限り、神には触れられない。
なぜなら、神とは沈黙そのものだからだ。
無考とは、頭の中のあらゆるおしゃべりを止めること。
過去の記憶も、未来への不安も、目の前の人の評価も、自分への疑いすらも、すべてを手放してただ「無」になること。
そして、この無の状態にこそ、神は宿る。
神は決して言葉の中にはいない。思考の中にもいない。
神とは、完全な沈黙、完全な静けさ、完全な今、である。
このため、無考と神は切り離せない。
思考を止めた瞬間に、私たちは神とひとつになる。
頭で「神を感じよう」としている間は、決して神には届かない。
神は、思考の外側にある。無考に入ったとき、個人の自我は消え、「わたし」と「神」との境界がなくなる。
そこにはもう、祈る者と祈られる存在の区別すらない。ただ、神そのものとして在る。それが無考の神体験である。
だからこそ、「無考神道」と名乗る。
この道は、単なる思考停止の技術でもなければ、静けさを求める心理的トレーニングでもない。
これは、神と直結するための道である。神を「外なる存在」ではなく「内なる実在」として捉える。
それも、言葉で思い描いた“内なる神”などではない。
無思考の中で、自己が消え去ったその奥にだけ現れる、沈黙そのものの神である。
古来、日本の神道もまた、「言葉以前の感応」を大切にしてきた。
祝詞や神楽も、言葉や儀式の中に神を呼び起こそうとする試みではあるが、根底にあるのは「自然との一体」「清浄なる状態」である。
つまり、本来の神道は、意識的な教義よりも「感じること」を重視していた。
無考神道は、その根源的な感覚を取り戻す道でもある。
清めとは、頭の中を静めること。神前に立つとは、思考を脱ぎ捨てること。神と交わるとは、無になることである。
この純粋な精神性こそが、神道と名乗るにふさわしい所以である。
宗教とは、神と人とをつなぐ「道」であるべきだ。
無考神道は、そのつながりを、思考や信念ではなく、「無」の中に見出す。
教義を信じるのではなく、無言の神とひとつになる。
だから布教も強制もいらない。ただ静かになれば、それだけで、誰もが神に還る。
神とは、特別な人にだけ許された存在ではなく、すでにすべての人の中に宿っている。
ただ、その神性が思考という雑音に覆われて見えなくなっているだけなのだ。
もしあなたが「神に会いたい」と願うなら、まず、その願いすら捨ててほしい。
ただ沈黙し、ただ在ること。何も求めず、ただ今に沈むこと。
そこに、すでに神はいる。
そしてそれが、無考である。