無考と眠気
午後の静けさの中で、ふと、まぶたが重くなる。
会議の途中でも、仕事の手を止めた一瞬でも、あるいは誰かの話を聞いている最中でさえ、「眠い」という感覚が静かに忍び寄ってくる。多くの人は、それを“怠け”や“集中力の欠如”として捉え、無理に打ち消そうとする。
しかし、眠気とは、実は無考への入り口なのだ。
眠いとき、人は考える力を失っていく。
明確な言葉にならず、論理も途切れがちになり、頭の中がふわふわと曖昧になっていく。
この曖昧さ、混沌、そして虚ろさの中にこそ、無考の真の力がある。
思考が弱まり、判断の力が鈍るとき、人はようやく“今ここ”に引き戻される。なぜなら、眠気の中では過去を悔やむことも、未来を心配することもできない。ただ、感じている現在だけがそこにある。
目を閉じたくなるほどの眠気は、ある意味で身体の智慧が私たちに「思考を止めよ」と語りかけている証拠である。
眠気を感じながらも目を覚まそうとする行為は、まるで無考を拒絶し、思考にしがみつこうとする姿勢そのものだ。
しかし、それをやめてただ身を委ねれば、そこに訪れるのは深い静けさ、そして純粋な存在そのものである。
子供はよく、眠くなると素直に目をこすり、やがてそのまま眠ってしまう。
大人のように「今寝たらまずい」と頭で考えることはない。
だからこそ彼らの眠りは深く、回復が早い。無考とは、まさにその無垢な状態に立ち返ることでもある。
「眠い」と感じたとき、ただ静かに目を閉じ、数分でもいい、すべてを手放してみる。
そうすると、不思議なことに、それまで悩んでいたことがどうでもよくなっていることに気づくだろう。
眠気によって頭の中の雑音が一掃され、ただ心地よい空間だけが残る。これこそが無考の力であり、眠気はその導き手なのだ。
「もっと頑張らなければ」「集中しなければ」と思った瞬間に、私たちは無考から遠ざかる。
反対に、「眠いな」と感じたら、それを責めるのではなく、静かに受け入れてみることだ。
そのとき、何かがほどけるように楽になる。そしてその楽さの中にこそ、私たちがずっと探していた“本当の自分”がいる。
眠気は敵ではない。それは、思考を超えた世界への優しい誘いである。
だから、今日も「眠い」と感じたら、それを合図に少し立ち止まってみよう。
目を閉じて深呼吸し、思考の川からそっと岸に上がる。そうすれば、そこには静けさと、広がる無限の空間が待っている。
無考は、眠気の中に宿っている。
決して強く打ち消すものではない。それはそっと寄り添い、私たちを内なる静寂へと導く光のような存在だ。
思考を手放すことを、怖れなくていい。その先には、眠りにも似た、限りなく優しい世界が広がっているのだから。