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マインドフルネスを超越する無考

現代のスピリチュアル界では、マインドフルネスが万能薬のように扱われている。
呼吸に意識を向け、今この瞬間に集中し、思考を観察する。
確かにマインドフルネスには一定の効果がある。
しかし、多くの実践者が気づいていないのは、マインドフルネスもまた思考の一形態に過ぎないということだ。
「今に意識を向けよう」「呼吸を観察しよう」と思った瞬間、それは既に思考である。
真の解放は、このマインドフルネスさえも超越した「無考」の境地にある。

マインドフルネスの実践を見ていると、多くの人が新たな執着を生み出していることがわかる。
「正しく瞑想しているだろうか」「思考が浮かんできたらいけない」「もっと集中しなければ」という思いが、かえって心を緊張させている。
マインドフルネスという概念そのものが、達成すべき状態として思考の中に位置づけられ、新たな努力の対象となってしまう。
これは本末転倒である。真の平静は努力によって得られるものではなく、すべての努力を手放したときに自然に現れるものだからだ。

マインドフルネスでは「思考を観察する」ことが重視される。
思考に巻き込まれずに、一歩下がって客観視するという手法だ。
しかし、この観察者もまた思考の産物である。
「私は今、怒りの感情を観察している」と思った瞬間、その「観察している私」という概念が新たな思考として立ち上がる。
観察者と観察対象という二元性を作り出している限り、根本的な静寂には到達できない。
無考の状態では、観察者も観察対象も消失し、ただ純粋な「在ること」だけが残る。

呼吸への集中も、マインドフルネスの基本的な手法である。
「息を吸って、息を吐いて」と意識的に呼吸をコントロールしようとする。
だが、本来呼吸は自動的に行われるものであり、意識が介入する必要はない。
呼吸に意識を向けるという行為自体が、自然な流れを阻害している。
無考の状態では、呼吸への意識的な注意は消え、呼吸は完全に自然に行われる。
この自然な呼吸こそが、真の平静をもたらす。

「今この瞬間に生きる」というマインドフルネスの教えも、実は思考的な概念である。
「今に集中しよう」と思うこと自体が、現在と過去・未来を分離する思考を生み出している。
時間という概念そのものが思考の産物であり、「今」という瞬間を特別視することもまた思考である。
無考の状態では、今も過去も未来もない。
時間の概念が消失し、永遠の中に存在している。
これは「今に生きる」という努力の結果ではなく、時間への執着を完全に手放した結果である。

マインドフルネス瞑想では、様々なテクニックが教えられる。
歩く瞑想、食べる瞑想、慈悲の瞑想。
これらのテクニックは確かに心を落ち着かせる効果がある。
しかし、テクニックに依存している限り、それは松葉杖のようなものだ。
テクニックがなければ平静を保てない状態では、真の自由とは言えない。
無考は何のテクニックも必要としない。技法も方法もなく、ただ在るだけである。
この単純さこそが、最も深い境地への入り口なのである。

興味深いのは、マインドフルネスを長年実践している人ほど、無考への移行が困難だということである。
「正しい瞑想」「適切な気づき」という概念が強固に根付いているため、それらを手放すことに抵抗を感じる。
まるで泳ぎ方を忘れて水に身を任せることを恐れるかのようだ。
しかし、真の安らぎは努力を手放したときにやってくる。
マインドフルネスという概念さえも捨て去ったとき、本当の静寂が始まる。

感情への対処法においても、両者の違いは明確である。
マインドフルネスでは「感情を受け入れる」「感情と距離を置く」といったアプローチを取る。
これも有効な方法だが、まだ感情との関係性の中にいる。
無考の状態では、感情そのものが生まれない。
怒りや悲しみ、喜びや恐れといった感情は、すべて思考が作り出すストーリーの副産物だからだ。
思考が止まれば、感情も自然に消える。
感情をコントロールしようとするのではなく、感情の源泉である思考そのものを止める。

マインドフルネス・ムーブメントが広がることで、多くの人が精神的な探求を始めたことは素晴らしい。
しかし、それが新たなドグマとなり、「正しいスピリチュアリティ」の基準となってしまうのは危険である。
マインドフルネスは入り口に過ぎない。
真の目的地は、すべての概念、すべての技法、すべての努力を超越した無考の境地である。

現代社会では、マインドフルネスがビジネスの生産性向上や医療の補完療法として利用されている。
これは実用的な価値があるが、同時にマインドフルネスを手段として利用している限り、その深い可能性を見逃している。
無考は何かを得るための手段ではない。
それ自体が完結した状態であり、目的でもある。
何も求めず、何も得ようとせず、ただ在る。
この純粋な存在こそが、すべての探求の終着点なのである。

マインドフルネスの実践者に言いたいのは、その実践を否定する必要はないということだ。
マインドフルネスは無考への階段の一段である。
しかし、階段の途中で止まってはいけない。
いつかは階段そのものを手放し、何の支えもない空中に身を委ねる瞬間が来る。
その瞬間こそが、真の自由の始まりである。
マインドフルネスを超越した無考の境地では、すべての概念が消え、すべての努力が止み、完璧な静寂の中で存在することの純粋な喜びだけが残るのである。

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無考神道・教祖

無考神道の教祖。 自身が日常生活の中で「無考」に至ったことから、日常生活での実践に重きを置いている。 また、無考によって司法試験に合格、年収3000万円超を達成、癌からの生存を実現するなど現世的な利益を得た経験があるため、現世的な願望を否定しない。

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