今ここに戻る無考
朝、どこに鍵を置いたのか思い出せない。
さっき誰かと何を話していたのか、もう曖昧だ。
昼に何を食べたかすら記憶がない。
こうした出来事は、決して珍しいことではない。むしろ、多くの人が日常的に経験しているはずだ。
理由は明確である。
私たちは、今していることとは「別のこと」を考えながら過ごしているからだ。
歩きながら明日の予定を考え、食事をしながらメールの返事を考え、人の話を聞きながら自分の発言を準備している。
こうして、「今ここ」から離れ、常に“次”へ“次”へと意識が飛んでいく。
その結果、今という瞬間に触れることなく、記憶も曖昧に、感覚も鈍くなっていく。
これは一種の習慣病とも言える。
頭の中で、常に何かが喋り続けている状態。
思考という名のナレーションが、現実の上に覆い被さっている。
その声があまりにも大きいために、現実のディテールが見えなくなってしまっているのだ。
見る前に分析し、聞く前に解釈し、感じる前に判断してしまう。私たちは、自分の思考に夢中になりすぎて、現実から切り離されている。
しかし、こうした状態は、本来の私たちの生き方ではない。
意識を思考に奪われるのではなく、「今ここ」に戻すこと。それが、無考の実践である。
無考とは、何も考えないことではない。
それは、「考えている自分」に気づき、その思考に巻き込まれず、ただ目の前の現実にくつろぐことだ。
鍵を置くとき、鍵を置くという行為に完全であること。
話をするとき、言葉を交わしている相手に意識があること。
食べるとき、味や香り、食感に繊細に気づいていること。
そのようにして、今という瞬間に全存在を投げ出す。それが無考の在り方である。
思考は、過去と未来を行き来する。
だが、人生が展開しているのは“今”だけだ。
過去に後悔し、未来に不安を抱えていても、実際に起きているのは、この瞬間の呼吸、この瞬間の鼓動、この瞬間の感覚だけだ。
無考とは、その現実に完全に一致すること。
頭の中の物語を止め、目の前の現実とともにあること。
無考に入ると、驚くほど記憶が鮮明になる。
なぜなら、体験が意識と共にあったからだ。
歩いた道の風景、話した人の表情、触れた物の質感、どれもが明確に刻まれている。
思考に気を取られていたときには、決して気づけなかった些細な美しさが、そこかしこに現れてくる。
何かを考えること自体が悪いわけではない。
問題は、常に考え続けてしまっていることにある。
ふとした瞬間、「いま自分は、何を考えていたのだろう?」とさえ気づけないほど、自動的に頭が動いている。
その無自覚な思考こそが、人生の真実から私たちを引き離してしまう。
だからこそ、日々の中で小さな無考の実践が必要なのだ。
歩くときは歩くことだけを、食べるときは食べることだけを、話すときは話すことだけをする。
その一つひとつが、私たちを“本当の今”に引き戻してくれる。
もう少し前のことさえ思い出せないほど、別のことを考えているという生き方から、今この瞬間を深く味わい尽くす生き方へ。
そこには思考では到達できない、静けさと充足が広がっている。
人生を取り戻すとは、今を取り戻すこと。
その最初の一歩が、「考えるのをやめる」ではなく、「考えていたことに気づく」ことなのである。
気づいた瞬間、あなたはもう無考の入り口に立っている。