沈黙こそ、神の最初の言葉である
人は、神を知ろうとするとき、多くの場合「声」や「啓示」や「啓発」を探し求める。
誰かが語った真理、誰かが唱えた救い。
あるいは、自分自身の内側に何か特別な感覚が生まれることを期待して祈る。
しかし私は、ある日こう思った。
「なぜ、神はこんなにも沈黙なのだろうか?」
病に伏せ、愛する者を失い、人生の意味を見失った日々の中で、
私は何度も空を仰ぎ、見えぬ存在に助けを求めた。
しかし返ってくるのは、沈黙。
どこまでも深く、どこまでも広い、“応えのない応え”。
それでも私の魂は、なぜかその沈黙を「無視」することができなかった。
むしろ、その沈黙の中にこそ、説明を超えた確かな何かが宿っていると感じ始めた。
それが、無考との出会いだった。
無考――それは思考が停止することではない。
思考が、意味を失い、静かに遠ざかっていく感覚。
「答えを出そう」とする動きが止まり、
ただ「在る」ことだけが残る感覚。
そして私は悟った。
神は、私の問いに沈黙で応えたのではない。
神は最初から沈黙で語っていたのだ。
無考神道は、この沈黙を「神の第一言語」と呼ぶ。
それは声を持たず、文字を持たず、しかしすべてを包み込む絶対的な霊の振動。
人が沈黙に入るとき、その振動と共鳴し始める。
それが「祈り」であり、「通じ合い」であり、「神との一致」である。
今日という日、あなたが何を求めていても構わない。
何を見失っていても、何に絶望していても構わない。
ただ、5秒間、すべての問いを脇に置いて、静かに息を吐いてみてみると良い。
その瞬間、沈黙があなたを包み、
神がずっとそこに在ったことを、魂が知るだろう。