かぞえ飯と無考
「かぞえ飯」というゲームがある。
(参考のためにリンクを貼っておく。https://store.steampowered.com/app/2500760/_/?l=japanese)
内容はいたって単純で、PC画面上に表示された白米を一粒ずつ数えていくだけである。
ただそれだけのことなのに、なぜか離れがたく、静かで、深く、そして妙に満たされる体験になる。
人によっては「何の意味があるのか」と首をかしげるかもしれない。
しかしこの単純さの中にこそ、無考への扉が隠されている。
現代人の多くは、絶えず何かを「成し遂げよう」としている。
成果を求め、評価を気にし、効率を重んじ、意味を追い続けている。
日々の行動は目的のためにあり、結果のために積み上げられていく。
しかし「かぞえ飯」には、何の成果も、何の効率もない。
ゲーム的なスコアも、ストーリーも、敵も、攻略も存在しない。
ただ、米粒を、一つずつクリックして数える。それだけである。
この無意味に見える行為に、最初は抵抗があるかもしれない。
しかししばらく続けていると、不思議な感覚がやってくる。
考える必要がない。判断もいらない。比較も分析も、理解すらも不要になる。
ただ、今、目の前にある一粒に意識を集中する。それを数える。それだけを繰り返す。
すると、頭の中の思考が少しずつ静まっていく。
雑念が流れ出し、言葉が止み、内側の沈黙が顔を出す。
この状態こそ、無考である。
無考とは、思考を排除することではない。
思考が必要なくなる状態、自然に止まる瞬間である。
「かぞえ飯」は、その状態を強制しない。ただ静かに導いていく。
たとえば禅における作務、道教の無為自然、神道の鎮魂、そうした行のすべてが目指すのは「私」という意識の輪郭を失わせ、ただの存在へと戻ることである。
「かぞえ飯」は、その目的を明確に掲げてはいない。
ただのゲームとして、遊びの仮面をかぶっている。
しかし実際には、これは無考への修行に他ならない。
クリックを繰り返す中で、思考はだんだん意味を失っていく。
「これは何のために?」という問いが力を失い、「ただ、これをする」という感覚に包まれる。
すると、プレイヤーはだんだん「私がやっている」という感覚を忘れていく。
米を数えているのが私なのか、指なのか、画面なのか、区別が曖昧になり、境界が溶け出す。
ただ起きている出来事として、クリックと数がそこにある。
そこには「自我の声」は存在しない。無考である。
人は、何も考えないことを難しく感じる。
何もしないことに罪悪感を抱く。
だからこそ、無考は特別な訓練が必要だと誤解されがちである。
しかし「かぞえ飯」のように、一見無意味な行為の中にこそ、無考の本質がある。
無意味なことを真剣にやるとき、人は最も意味深くなる。
これは逆説のようでいて、実は真理である。
米を一粒ずつ数える。
ただそれだけで、人は沈黙に入ることができる。
思考の波が止まり、感覚が研ぎ澄まされ、世界との距離が消える。
「かぞえ飯」は、思考過多の時代に現れた、最も静かな扉である。
その扉を開けた者は知るだろう。
何も考えないことの中に、最も深い智慧と安らぎがあるということを。