頭の中の意識的なおしゃべりが無考に近づく
無考とは、頭の中の思考を止めることである。
言い換えれば、脳内の「おしゃべり」が沈黙する状態のことである。
この静寂の中にこそ、真の幸福、直観、創造、そして神聖が宿る。
だが、頭の中は常に勝手にしゃべり続けている。
「あれをしなければ」「なぜこうなったんだ」「あの人はどう思っているだろう」など、思考は絶え間なく流れ続け、自我の活動は止まらない。
この止めようのないおしゃべりこそが、苦しみの源であり、無考への最大の障壁だと、多くの人は信じている。
だが、ここに一つの逆説がある。
それは、「意識的に頭の中でしゃべる」ことが、無考に近づくための入口になりうるという事実である。
普通、私たちは頭の中で勝手にしゃべっている。
自動的で、制御不能で、次から次へと思考が湧いてくる。
その自動運転状態のままでは、思考に飲み込まれているに過ぎず、沈黙へと入ることはできない。
しかし、そのおしゃべりを「意識的に」行うようにすると、状況は一変する。
たとえば、頭の中で「私は今、こうして考えている」「これはただの思考にすぎない」「私は今、自分に語りかけている」と、実況中継のように自分の思考に光を当てていく。
すると、その瞬間から思考は、自分ではなく「観察される対象」へと変わっていく。
意識的なおしゃべりは、思考の流れに気づきを持ち込むことになる。
気づきが入った時点で、思考は暴走できなくなる。
意識的なおしゃべりは、単なる雑念ではない。
むしろ、それは自動思考を浮かび上がらせ、客体化させるための作業である。
言い換えれば、無考とは“無言”ではなく、“無自我のおしゃべり”の向こう側にある。
だからこそ、自分で選んだ言葉、自分で意図した思考を頭の中に流していくことは、自我の自動的なつぶやきを浮き彫りにし、その支配を弱めることにつながっていく。
そして不思議なことに、しばらく意識的におしゃべりをしていると、ふと、話す必要がなくなる瞬間がやってくる。
そこに、意識的にしゃべっていた言葉が自然と止まる沈黙の間が訪れる。
その瞬間、頭の中に静寂が差し込む。
その沈黙は、強引に作ったものではない。
意識的なおしゃべりという「道具」が、目的地に届いたことで自ら消えていった状態である。
このプロセスは、坐禅や瞑想の中でも応用されている。
たとえば「数息観」では呼吸を数える。「今、息を吸っている」「今、吐いている」と実況するマインドフルな練習も同様である。
最初は意図的な内語がある。しかしやがて、その言葉も消え、ただの呼吸だけが残る。
この構造と、意識的なおしゃべりが無考へ導く構造は同一である。
つまり、「無考」とは単に黙ることではない。
ただ黙っても、頭の中の思考は勝手に騒ぎ続ける。
むしろ、意識的にしゃべることで、その騒ぎに光を当て、自ら沈黙へと歩ませる。
意識があるからこそ、無意識の雑念は力を失う。
その意味で、意識的なおしゃべりは、無考への橋である。
意図して話し、そして静かにその言葉が消えていく。
それは思考の死であり、沈黙の誕生である。
考えすぎる人ほど、無考に入りやすい。
その思考のエネルギーを、意識的な観察へと転換すればいいだけである。
思考を否定せず、思考の本質を見抜き、その奥に沈んでいく。
それが、真の無考の道である。