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無考とは何か?マインドフルネス・引き寄せの法則・潜在意識との決定的な違い

「無考」とは何か。
それを説明しようとするとき、多くの人が「マインドフルネスの一種ですか?」「潜在意識と関係ありますか?」「引き寄せの法則と似ていますね」といった問いを投げかけてくる。
確かにこれらの概念は、どれも「思考を超えた力」や「内面の静けさ」に関連しており、表面的には共通点も多い。
しかし、無考はそれらとは明確に異なる。
むしろ、類似に見えるがゆえに、その違いを理解しなければ本質を見失ってしまう。

まず、マインドフルネスとの違いについて。
マインドフルネスは「今この瞬間に注意を向ける」ことを目的とした実践である。
呼吸や身体感覚に意識を集中させ、現在にとどまる訓練をする。
しかし、そこには常に「意識的な集中」という努力が伴う。
マインドフルネスは、「今ここ」にいるために「意識的であろうとする」行為なのだ。

一方、無考は「意識を集中することさえやめる」在り方である。
特定の対象に集中することもなく、ただ思考を手放し、全体に開かれた状態に戻る。
呼吸に意識を向けるのではなく、呼吸すら気にしない。ただ在る。ただ沈黙の中に漂う。そこに努力や目的はない。
無考は、マインドフルネスの「さらに向こう側」にある静けさである。
(ただし、理解を容易にするために、記事によってはマインドフルネス的な書き方をしている記事もある。厳密には上記のとおり違いがある)

次に、引き寄せの法則との違い。
引き寄せの法則は、「こうなってほしい」と望む現実を、イメージや感情の力で現実化するという教えだ。
思考と感情をポジティブに保ち、宇宙に波動を放つことで、望む未来が引き寄せられるとされている。
この考え方は、自分の思考と感情を積極的に用いて現実を動かす点に特徴がある。

しかし、無考は「望み」すら持たない。
「こうなってほしい」と思うことさえも手放し、完全に空の状態でただ今を受け入れる。
望みがある限り、そこにはエゴと欠乏が含まれる。
無考は、欠けた自分を満たすために何かを引き寄せようとはしない。
すでに完全であることを思い出す実践である。願望の実現ではなく、願望そのものの超越。
だからこそ、無考の中では、思いがけない形で必要なものが与えられることがある。
それは「引き寄せ」とは似て非なる、もっと深く、自然な流れのようなものだ。

そして潜在意識について。
潜在意識は、私たちが日常的に意識していない無意識の領域を指す。
その中には過去の記憶、感情、思い込みが蓄積されており、私たちの行動や現実を知らぬ間に支配しているとされる。
その潜在意識にアクセスし、書き換えることで人生を変えるという手法も多く語られている。

だが、無考は潜在意識すら「触れない」。
それを書き換えようとすることも、掘り下げようとすることもしない。
なぜなら、潜在意識もまた「思考の一部」だからだ。
無考の実践では、顕在意識も潜在意識も等しく超えていく。
記憶の層に触れることなく、その奥の「本来の自分」に戻っていく。
ただ静かにしていれば、潜在意識のパターンは自然に浮上し、そして消えていく。
変える必要も、癒す必要も、本当はない。ただ、止まればいい。

これらの違いから見えてくるのは、無考が「何かを得るための方法」ではないという点である。
マインドフルネスは今に集中する方法であり、引き寄せの法則は現実を動かす方法であり、潜在意識の活用は内面を変える方法である。
すべて「手段」であり、「目的の達成」が前提にある。

しかし、無考には目的がない。
ただ「今ここに在る」ための、方法を超えた在り方である。
そこに計画もゴールもない。ただ、静かにすべてを手放し、無になる。
だからこそ、無考の力はあらゆる技法を超えて働く。
努力せず、願わず、癒さずに、すべてが整っていく。
言葉にすると逆説的だが、無考とは「何もしないことによって、すべてが変わる」道なのである。

今日もまた、頭の中で何かを「どうにかしよう」としているなら、いったんその努力をやめてみる。
ただ、思考を止め、静けさの中に戻ってみる。
そこには、マインドフルネスの精緻さも、引き寄せの鮮やかさも、潜在意識の深さもない。
ただ、あるがままの命が、無言で輝いている。

それが、無考の道である。

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無考神道・教祖

無考神道の教祖。 自身が日常生活の中で「無考」に至ったことから、日常生活での実践に重きを置いている。 また、無考によって司法試験に合格、年収3000万円超を達成、癌からの生存を実現するなど現世的な利益を得た経験があるため、現世的な願望を否定しない。

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